
こんにちは!デザイナーのはまねこです。少し前の話になりますが、高校生の息子と『ブラックジャック展』に行ってきました。
我が家には昔から、父が読んでいた手塚治虫さんの単行本が積んでありました。特に『ブラック・ジャック』は物心ついた頃から私も何度も手に取り、今でも思い出すエピソードもあるくらい読み返した大好きな作品です。
そんな私の影響か、今では高校生になった息子も、小学校の頃から図書館でブラックジャックを借りて読んでいました。会期ギリギリになって「ブラックジャック展、行ってみる?」と誘ってみたら、思いのほかすんなり「行く」と言うので、二人で展覧会へ。
見えてくる“描かれた時間”
展示の多くは、雑誌掲載時の生原稿です。何度もホワイトで修正された痕跡、墨での力強いベタ塗り、繊細なペンの線——印刷では見えない“描かれた時間”が、そこには残っていた。今ではトーンで貼っているであろう背景の柄なども細いペンで描いてあってビックリしました。
原稿をじっと見ていると、思わず息をのんでしまうような瞬間が何度もありました。墨で塗られたベタは、真っ黒で均一……というわけではなくて、よく見ると濃さが違ったり、塗りムラがあったりします。筆かペンか、力を入れたときの勢いまで見えてくるようで、「ああ、これは本当に“描いた”ものなんだなぁ」と、しみじみ思ってしまいました。
修正箇所もたくさんあって、時にはホワイトを重ねすぎてヒビが入っているようなものも。「あ、ここは描き直したのかな」とか「何度も迷ったんだろうな」とか、そんなことを想像してしまいます。きれいに仕上がった印刷物からはわからない、制作の途中の“迷い”や“時間”が、そのまま残っている感じがして、見入ってしまいました。
便利になっても、変わらないもの
いまは多くの作品がデジタルで作られていて、線もきれいに整っているし、修正にかかる時間もきっと段違いでしょう。データでの作業は、便利になって効率もいいと思います。でも、物語の0から1を生み出す力、人間の想像力はいつの時代もずっと試され続けていくのでしょうね。
今の時代を見た手塚治虫がいたら、どんな物語を生み出したでしょう。悲しいニュースに触れるにつれ、昔から人間のしょうがない部分を突き詰めていた彼に解決法があるのか聞いてみたいような気がします。でもブラックジャックなら「我々は神じゃない、人間なんだ」とか「正義なんて世の中にはない」って言うかなぁ。
